それは"民主主義"なの?
雑誌エスクァイア10月号の書評のひとつにちょっと疑問を持ちました。
対象となっている本は高嶋伸欣「拉致問題で歪む日本の民主主義」で、書評のタイトルは「不平等なメディアによって壊れゆく民主主義」となっています。対象となっている本は眼を通していないので何の意見もいいません。書評に対してのみです。
オウム真理教のテロ事件を契機に、危機管理意識が高まり、また国民には被害者感情が形成、共有されるようになった。そして、突然のミサイル発射に、経済制裁を加えるべきだという論調がメディアに浮上。一部の政治家は先制攻撃を主張。国民もそれを支持した。「何と短絡的で好戦的な国なのだろう」という本の著者の意見に同意。でも、制裁以前に、2002年から北朝鮮への食料、衣料品の人道援助は停止されており、その制裁の帰結によって、大勢の子どもや老人、病人が命を失っているかもしれないが、それはメディアで報道されない。拉致家族のスポークスマン的存在である蓮池透氏がなぜ沈黙してしまったかも報道されない。一方的に、拉致被害者という存在を掲げて大政翼賛的な報道をくりかえしてると批判しています。
まず、短絡的といわれれば短絡的。先制攻撃とまでいわれれば、それは行き過ぎだけれども、米国なんかは実際に理由をでっちあげてでも攻めていってしまいますが、日本ではそれはあくまでも"意見"だ。ぜんぜん攻めてなんていってない。
それ以前には、国会議員によって「日本人の拉致なんてでっちあげだ」とまでいわれていたのが、拉致被害者の家族や協力者(たとえば兵本達吉さん→こちらの著書)の努力によって、ようやく拉致の実体がわかってきたのではないか。
自分たちの意見が多数派から少数派になったから民主主義が壊れたというなんておこがましいにもほどがあります。その意見にこそ、民主主義が存在しません。
しかし、メディアの偏向、一方から一方へと傾れ(なだれ)を打つことに対しての批判には賛成します。メディアに偏向があるのはもう常識になってもいいように思います。やはり、なにかの意見をもっているひとがやっているのですから、意見にそった形になるのは避けられないことじゃないですか。



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