塩野七生による日本のキリスト教とヨーロッパのキリスト教
塩野七生さんと堤堯さんとの対談がおもしろかった(月刊誌WILL別冊・季刊『歴史通』4月号もしくは『WILL』6月号に一部掲載)。
宗教に関して示唆に富む発言が多くありました。
たとえば、一神教と多神教というのは、神の数の違いではなく、ほかの人がほかの神を信仰しているのをみて別にかまわないというのが多神教。ローマ神話の多神教はほかの民を征服していってそこの神を合わせていったもので、自分の中で増殖していった日本の八百万(やおよろず)の神とはじつは性質がちがっているのだということ。
また、日本のキリスト教者は辺境のキリスト教徒だから純粋に残ったといっております。遠藤周作が創作の課程で汎神論・多神教的方向へ移行していったことも、ヨーロッパからしてみれば、まだそんなことをいっているのか、というふうなこと。信仰を捨てる=棄教の問題もべつにふつうのことで、棄教する人を復帰させるマニュアルがあるくらいで、棄教自体が問題になることなんてないんだそうです。
なるほどと思いました。ひとえに信仰することだけが大事みたいな(日本のキリスト教との)スタンスはそういうことからきてたんですね。
マキャベリとルターの違いについてもおもしろく、一千年のキリスト教支配は人間を一つも良くしなかった→マキャベリは、宗教で人間を変えることは不可能だから、変わらない人間の本性を直視してそれに適した対策を考えることを主張。ルターは神と信者のあいだに聖職者がいたために真の宗教の浸透の妨げになっていたと考え宗教改革をおこない、それがプロテスタントとなったわけです。
で、その後500年たちました。人間は変わったかといわれると、(笑)ですよね。マキャベリが正しかったというわけです。
うーん、ずっと塩野七生は避けてきたけど(塩野七生を好きだといってる人が嫌いだったから)、これを読んで興味がわいてきました。



コメントする