2010年1月 1日

フロム・ヘル

フロム・ヘル 下 (単行本(ソフトカバー))フロム・ヘル 上 (単行本(ソフトカバー)) 切り裂きジャックを描いた長篇コミックです。犯人像・事件背景はスティーブン ナイト『切り裂きジャック最終結論』を元にしているそうです。犯人を推理した"切り裂きジャック本"のひとつで、王族の隠し子をネタにおどして金をとろうとした娼婦たちが口封じのために殺されたのだというのがその主張になります。口封じにはフリーメーソンが深く関与し、そのメンバーで、女王の主治医である実行犯であるとしています。発表当時は、オカルト本で有名なコリン・ウィルソンが絶賛するなどして話題となりましたが、しばらくすると評価は急降下し、こき下ろされるようになります。この本は、綿密な調査の結果をもとにしているのではなく、"王族の隠し子の息子"を自称する人物の話を根拠にしており、事実かどうかはともかく、話としてはおもしろく、『フロム・ヘル』の作者はそこに魅力を感じたようです。『切り裂きジャック最終結論』をどう評価してどう用いたかは、下巻の巻末に作者による注によって知ることができます。けっこうな量がありますが、創作の秘密に触れられることもあって、けっこうたのしく読んでいけます。

 絵は細い線で描かれていて写生画よりのタッチ。デッサンがやや崩れたりもしているところがいい味になっておりドキュメンタリーであるかのような空気を生みだしています。

 物語を構成する要素のひとつひとつは、それほど目新しいものはありません。たとえば、「犯人である医師が幻視を体験し、ある種、宇宙的な、場所にも時間にも縛られない視野を得て、一時的にでも超越的な存在となる」というクライマックスも、日本の創作物に普段からふれていればめずらしいものではありません。『攻殻機動隊』のラストで主人公の草薙素子が体験する"ネットワークの海(宇宙)"などがあります。手塚治虫の『火の鳥』にもこういう結末があります。神憑り的にすべてを悟るクライマックスは、新しいどころか"伝統的"という言い方が似合う物語のパターンです。
 そういった要素の単純な目新しさではなく、語りの方法と物語の構成によって、深い味わいと満足いく読みごたえが作られています。

 ところで、作中、犯人である医師が、共犯となる自分の御者をつれて、ロンドンを案内します。御者はもちろんロンドンにはくわしく、わざわざふつうの案内をされる必要はありません。建築家ニコラス・ホークスムアの建てた教会の秘密の意匠を見せてまわるのです。
 その道すがら医者が語る話に、古代の女権社会の残酷性があります。報復のためにいくつもの町を焼きつくし廃墟にし住民を皆殺しにした、ケルト人イケニ族の女王ブーディカとりあげられます。ロンドンの地層にはその時の記録が半インチの黒い帯として残っているのだそうです。そのような力の奔放な反乱を抑えるために父権社会がつくられたのだと医師は主張します。
 一部のフェミニストは、戦争は男社会のせいだ、みたいなことをいいますが、逆の意見もこんなふうにでてくるんですね。
 嫌なことはみんな他人のせいにするわけです。

"フロム・ヘル"上下巻
アラン・ムーア 作、エディ・キャンベル 画、柳下毅一郎 訳
みすず書房
各2730円
上巻Amazonアソシエイト
下巻Amazonアソシエイト

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