2010年5月 9日

宮城谷昌光 『三国志』 第3巻

三国志〈第3巻〉 (文春文庫) (文庫) 宮城谷版 『三国志』は、三国志の英雄が生まれる前から物語が始まり、後漢の終焉が語られてゆきます。

 後漢王朝の衰退は、主にふたつの原因があるといわれています。
 ひとつめは「外戚」とよばれる「皇帝の妃の一族」。娘の親であったり兄弟であったり一族のほとんどが高い位につき権力を持ちました *1
 もうひとつは「宦官」。皇帝など王族個人につかえる召使いです。特徴として、生殖器を切り落としていることがあります。
 この「外戚」と「宦官」という、皇帝以外の人物が権力をにぎり、政治をないがしろにして、国を荒廃させ国民を苦しめました。
 権力に近い存在には、もうひとつ「官僚」があります。大臣や武将のことです。後漢の初代皇帝の光武帝によって、皇帝の許可なしには物事が進められない状態にされ、「官僚」の権力は皇帝のものとなっていました。
 皇帝に権力が集中しているため、皇帝が無能であったりすれば、すぐに国の乱れに結びつきます。権力者以外がいくら有能でも、権力者が聞く耳をもたなければ修正は不可能です。
 光武帝は名君として評価されていますが、王朝の組織には欠陥を残してしまいました。著者も指摘していますが、これもまた光武帝の個性の反映なのでしょう。

 「外戚」と「宦官」の横暴を宮城谷版 『三国志』は鄧太后の摂政から描き始めます。
 和帝の后(きさき)であった鄧氏は、27歳で亡くなった和帝の跡継ぎを、長男は治らぬ病をもっているからと外して、生後100日ほどの赤ん坊である隆(殤帝)としました。けっこう無茶な選択だと思うのですが当時はそれが通ってしまう状況だったようです。しかしその赤ん坊の皇帝は八ヵ月後に亡くなってしまいます。あらたに祐(安帝)を皇位につかせました。鄧太后は兄を大将軍の地位に就け、権力を掌握しつづけます。ただ、鄧太后は善政を敷いています。鄧太后が后(きさき)であった和帝の時代に、太后とその兄が権力を掌握、という同じ図式で専制がおこなわれていました。こちらは評判が悪かったため、似た状況にある鄧太后はつねに比較されることになります。それとは違うのだという答えをきちんと出した鄧太后ですが、この権力の構造を変えることはしませんでした。一度だったらそれは単なる失敗にすぎませんが、二度続けてしまうとあとにつながる前例となってしまいます。鄧太后は意図せずに後漢王朝の欠陥を顕在化させてしまいました。
 ちなみに、和帝は宦官を使って権力を握っていた外戚を暴力的に排除しました。外戚の台頭と宦官による排除のパターンはこのあとも繰り返されます。しかもパロディのようにバリエーションをひろげながら。宦官が外戚を倒すたびに宦官が力を持つようになり、ついには宦官を外戚が倒さなければならなくなっていきます。

 曹操の祖父である曹騰は宦官でした。順帝即位のために権勢をふるっていた外戚を仲間とともに倒します。その功績によって、それまで宦官は一代かぎりだったのですが養子をとれるようになりました。のちに曹操の父となる曹嵩を養子にむかえました。
  『三国志』 の一巻は、その曹騰が活躍するクーデターと、王朝のつぎなる災難のはじまりが描かれます。
 二巻は、横暴をきわめた外戚・梁冀が王朝を揺るがす化け物となっていき、ついに桓帝と側近の宦官とによって誅殺されるまでが前半で、後半は「党錮の禁」になります。力をつけてきた宦官たちと、それを批判する外戚や官僚および地方豪族たちとの衝突です。宦官たちは反対派を一斉検挙しました。この巻から、曹操、劉備、孫堅らがでてきます。
 そして三巻では、ついに董卓を中央にまねきいれてしまいます。反董卓の挙兵。行動しない反董卓連合にあいそをつかした曹操は自分の兵をひきつれて戦いにのぞみますがあっけなく敗北。一方、檄文がとどいた孫堅は連合軍とはべつの地から兵を挙げ、初戦は大敗したもののすぐに軍を立てなおし勝利をつかみ進軍、董卓自身がひきいる軍を破ります。本格的に「三国志」が始まります。

"三国志〈第3巻〉"
宮城谷昌光
文春文庫
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*1: 母方の親戚が外戚で、父方が内戚

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