宗教は一般に思われているような"心の支え"になるだけではなく、知的な道具として現実に対して役に立つことをのべた本です。
この本はまた、キリスト教の入門書としてもすぐれています。
聖書の選び方として、著者は「旧約続編付きの新共同訳聖書の引照付きもの」をすすめています。
「引照付き」がなぜよいのかというと、この「引照」というのは聖書の言葉がほかのどこと関係しているのか示した注のことなのですが、これは聖書の文章の解釈に必要不可欠になってきます。
「人はパンのみに生くるにあらず(人はパンのみにて生くるにあらず)」というフレーズが例としてとりあげられています。
この言葉の意味を、あんまり考えないでいうと、"パン以外にも肉とか魚とか野菜とかも必要"ということになるでしょうか。あんまり考えないでいうと、というより、おちょくっているような答えですね。
もっと、ふつうにいえば"人は物質的なものだけで生きるのではなく、精神的なもの・宗教的なものも必要"ということになるでしょう。これは、ネットで検索したときにでてくる意味です。一般的にはこう考えられているようです。
ところが、この「パンのみに」のフレーズは、モーセがエジプトで捕虜になっていたユダヤ人たちをつれてシナイ半島を移動しているときに食べ物がなくなった、すると天からマナが降ってきてそれを食べて生命をつないだという故事を念頭に置いてイエスがいった言葉なんですね。
したがってその意味は、パンがなくても神様がマナのような最低限生きていけるだけの食べ物はあたえてくれる、となります。解釈はいろいろあるでしょう、たとえば、最低限、食っていくだけならけっこうなんとかなるとか、しかしこの言葉はけっして「精神的なものの話ではない」のです。一般的に信じられている意味は誤った解釈だといえます。
古い文章というのは、どういうものでもけっこうそうなのですが、故事にもとづいて物を言う場合が多いので、なにをバックボーンにして物を言っているかを知るのは重要です。引照付きになると本が厚くなってしまうので個々人が持つのはちょっと大変ですが、一家に一冊、もしくはグループに一冊は必要でしょう。
聖書の訳はいくつかあるけれど「新共同訳」がなぜよいかのかというと、著者は、カトリックとプロテスタントという立場の違う人たちがなんとか共同の日本語訳聖書を作ろうと議論を重ねてきたものであること、をその理由にあげています。個人または考え方が近いひとたちだけで作っていくと、どうしても思い込みがでてくる、ということです。他の訳についても、少しずつですが成り立ちや傾向についての記述があり、参考になると思います。
その他、それぞれの教派について、歴史の流れや考え方の違いからの説明があります。
また、神学的な立場からのキリスト教についての説明があり、それは論理的で、すっきりとした説明であり、キリスト教というものの"骨組み・構造"がよくわかるようになっています。
宗教自体に興味がなくても役に立つ知識がけっこう得られます。
唯物論と宗教的なものは相反するものではないとか。これは、何かの存在の意義とかそういうことを考えるのはは神学を学んでいる人ではないと許されなかったそうです。ほかの学問の人はだから目に見えたまま、あるがままをあるがままに見ることしかできなかった。やっていいことの範囲がきっちりわけられていただけで、おなじ土台にたっていたわけです。
目に見える者しか信じてなかった学者さんが急に超常現象とか新興宗教にどっぷりつかってしまうのも別段ふしぎなことではないわけです。
見えないものっていうのは見えるものの潜在的前提となっている場合がけっこう多いんです。有限と無限の関係なんかもそうです。無限について関与しない場合でも、無限が有限の前提になっています。「宇宙の果て」なんかを考えるとわかりやすいと思います。宇宙の果てのその向こうにはなにがあるのかって小学生のころによく考えたりしたものです。宇宙の果てのその向こう、その向こうって、はてしなく考えることができます。
おそらく、「考えること」というのはそののなかに「見えないもの」が必ずでてきてしまう構造になっているんだと思います。いつの時代になってもたぶん消えない。「見えない」部分を無視していると、そこに変な宗教やらインチキ科学やらが入り込んでしまい、害を及ぼすと、そういうことなんでしょうね。
それから、聖書には手紙の形式で書かれた文章がありますが、これは当時、いちばんレベルが高いとされていた文学形式が「書簡」だったからだそうです。
また、現在では「著者」という考え方もしないのだそうです。ヨハネによる福音書だったら、ヨハネという著者がいる、というふうになるはずですが、宗教の文章はおなじ考えの人が集まって、そして「これ」と書いた・まとめた文章であるから、集団の文章と考えるのだそうです。聖書全体も議論してまとめられたものですからね、そう考えるのが最適なのかもしれません。
著者そのものがいて、その文章に対する著者の考えもあったんでしょうが、教団のものとして使われると、教団の意図が文章の意図にイコールしてしまいます。著者の意図をその文章の意図にしてしまうのは、宗教の文章を考える上では間違い(に近いもの)になってしまいます。編集・加筆されているのが確実な聖書においては自体は複雑で、著者を追い求めるのは聖書を考える上で、ほぼ意味がないのでしょう。
"はじめての宗教論 右巻~見えない世界の逆襲 "
佐藤優
日本放送出版協会