2009年7月19日

検閲 1945-1949 禁じられた原爆報道

Amazon.co.jp: 検閲 1945‐1949―禁じられた原爆報道: モニカ ブラウ, 立花 誠逸: 本 アメリカの検閲の恐ろしさは検閲していることを隠したことにあります。
 戦時中の日本の検閲がよく知られているのは、文字を黒く塗りつぶしたり、逆に文字を消して白紙のページができたりしていたからです。黒く塗られた部分や空白部分をみれば、読む人は、これは検閲されたのだなということがわかります。アメリカはそれを許しませんでした。

 作者のモニカ・ブラウは、広島と長崎に落とされた原爆のことが、自分の住むスウェーデンでほとんど気にもとめられていないのは、自国民の無関心と怠惰のせいだろうと考え、自分がこの知識不足を補おうと生存者へのインタビューを始めます。そして、当時アメリカによるきびしい情報制限があったことを知ります。

 アメリカは、日本に自由をもたらしに来たと言いながら、実際には依然とかわりばえしないかそれ以上の不自由を課してきました。見た目にはそうでないように装われて。

 海外との情報は遮断され孤立させれます。
 戦争は、すべてが日本のせいであり、過去の日本は悪であったと日本国民に植えつけることが基本方針となります

 この方針は、アメリカがソ連などの共産勢力と対立を深めたことで反共産主義・反ソ連へと変わります。目的が途中で変わってしまうわけです。日本人に罪悪感を持たせて骨抜きにするのはまあ占領政策としてわかりますが、反共はアメリカの都合です。

 また検閲の基準がまちまちであったことも指摘されています。これは命令系統がひとつではなかったことが理由とされています。

 原爆についての情報は、最新兵器であったために情報が遮断されました。
 治療にあたっても被爆というのがこれまでなかったものですから他の医師に意見をもらいたいというのがありました。しかしそれはかなわずかなり苦労されたようです。医師たちに対する被爆者側からの印象も「研究対象にされるだけ」というのが多いのも、どう治療していったらよいのかわからなかったという医師たちの状況が主な原因になっていたわけです。

 現在、この本は品切れになっており、ネットでは2,3倍の値段で取引されています。(図書館で読むのがよいでしょう)。
 復刊、文庫化を望みます。

"検閲 1945-1949 禁じられた原爆報道"
モニカ・ブラウ
時事通信社
2000円
Amazonアソシエイト

2009年7月16日

自白は王様

 証拠となっていたDNA鑑定がまちがいであることがわかった足利事件のいきさつをみて、証拠としての自白について佐藤優さんが雑誌のコラムでけっこう怖いことを書いていました(月刊Will 2009年8月号「猫はなんでも知っている」第16回)。

 それは、足利事件に、もし、物証の証拠がなく、供述だけで事件が構成されていたら、冤罪を証明することができなかったであろう、ということ。
 自白と目撃者の供述できっちり作られてしまったら、もはや、手も足もでない。‥‥この恐ろしさ。
 「自白は証拠の王様」というのはこのことなんですね。

 元警視庁警視のお話が載せられていますが、警察でも、物証を基本に組み立てた事件は公判で崩れやすく、自白と証言で組み立てられた事件はまず崩れない、という認識があるようです。自覚的にその技法を活用しているかどうかはべつとして、少なくとも経験則でそうであることはわかっている。

 また佐藤優さんは、今回のことを批判している新聞が、実際は冤罪を作る側に荷担していた認識がまるでないことを強く非難しています。
 そういえばオウム真理教の毒ガステロのひとつ「松本サリン事件」の報道もそうでしたね。被害者である無実の人間を疑わしい、疑わしいとくりかえして犯人であるかのようなイメージを刷り込んでいました。
 ご用心、ご用心。
 そういえば、衆議院議員(茨城三区)の葉梨康弘も「自白は証拠の王様」っていっていたなー。こんなとんちんかんな論法で話すんですか? 葉梨康弘先生は。「葉梨は、次の選挙を見据えて名前を売りたいだけ」という話もありますが、刺激的に言葉を飾るブロガーや雑誌ライターならともかく、政治家の論法じゃあないよねー。ご用心ご用心、です。


 しかし、Willは、連載コラムが充実していますね。佐藤優さんのものもそうですが、曾野綾子さんの「小説家の身勝手」も、"鋭い"というポーズは見せずにどこかべつのところを見ているかのように、ゆらゆらっとしてるんですが、いつのまにやら、あっという風景を掲示して、見落としていた意外な問題点にきづかせてくれます。文芸春秋の編集長だった堤堯さんの巻末コラムもおもしろくて、これだけでも毎号買う価値があります。

2009年7月 4日

塩野七生による日本のキリスト教とヨーロッパのキリスト教

 塩野七生さんと堤堯さんとの対談がおもしろかった(月刊誌WILL別冊・季刊『歴史通』4月号もしくは『WILL』6月号に一部掲載)。

 宗教に関して示唆に富む発言が多くありました。

 たとえば、一神教と多神教というのは、神の数の違いではなく、ほかの人がほかの神を信仰しているのをみて別にかまわないというのが多神教。ローマ神話の多神教はほかの民を征服していってそこの神を合わせていったもので、自分の中で増殖していった日本の八百万(やおよろず)の神とはじつは性質がちがっているのだということ。

 また、日本のキリスト教者は辺境のキリスト教徒だから純粋に残ったといっております。遠藤周作が創作の課程で汎神論・多神教的方向へ移行していったことも、ヨーロッパからしてみれば、まだそんなことをいっているのか、というふうなこと。信仰を捨てる=棄教の問題もべつにふつうのことで、棄教する人を復帰させるマニュアルがあるくらいで、棄教自体が問題になることなんてないんだそうです。
 なるほどと思いました。ひとえに信仰することだけが大事みたいな(日本のキリスト教との)スタンスはそういうことからきてたんですね。

 マキャベリとルターの違いについてもおもしろく、一千年のキリスト教支配は人間を一つも良くしなかった→マキャベリは、宗教で人間を変えることは不可能だから、変わらない人間の本性を直視してそれに適した対策を考えることを主張。ルターは神と信者のあいだに聖職者がいたために真の宗教の浸透の妨げになっていたと考え宗教改革をおこない、それがプロテスタントとなったわけです。
 で、その後500年たちました。人間は変わったかといわれると、(笑)ですよね。マキャベリが正しかったというわけです。

 うーん、ずっと塩野七生は避けてきたけど(塩野七生を好きだといってる人が嫌いだったから)、これを読んで興味がわいてきました。