2007年1月21日

ディパーテッド

 物語には、"頭"と"腹"があって、"頭"は単純にテクニックとアイデアです。"腹"は、なにをどう描くか、作者の内面にかかわってくる部分です。結末をハッピーエンドにすればもっとウケるだろうけどそうはできない、とか、ひとが死ななければそれは私の作品ではなくなる、とか、そういう計算だけではいかない部分、作者の情念や怨念に関わってくるところです。

 「ディパーテッド」は、すでにある映画のリメイクです。頭は最初からあるわけです(直接は「インファナル・アフェア」で、間接的には「グッドフェローズ」。「グッドフェローズ」は仲間をFBIに売ったマフィア幹部のストーリーです)。腹は、主人公ふたりの行動です。

 主人公のひとりは、マフィアのボスに親代わりに愛された青年で、警察に入り、特別捜査班に配属されたコリン・サリバン(マット・デイモン)。マフィアに警察の情報を流しています。もうひとりは、コリンと同時期に警察に入り、マフィアの一員になりすまして警察に情報をおくる潜入捜査官となったビリー・コスティガン(レオナルド・ディカプリオ)です。
 コリンは自分ですべてを動かこそうとする野心を徐々に育てはじめます。天才肌の青年によくある自信過剰さは特になく、案外、小心者です。ビリーは、自分の一族に裏社会で生きる人間ばかりなのに引け目を感じています。マフィアに潜入していることがばれて殺される恐怖とともに、自分の"血"についての考えが大きなプレッシャーとしてのしかかってきてつぶされそうになります。
 コリンは、真実の"愛"も、いつわりの"善"とおなじように、きれいごととして失い、ビリーは、求めている"善"が得られずに苦しみながらも、なお追い求めます。

 この選択は、小さいものならば誰の生活にもあるものです。映画では、どちらを選ぶかは問われず、ただふたりの人生が突きつけられるだけです。
 あからさまにどちらというと野暮ったくなって格好悪いからそういっていないだけで、やはり、現実のわれわれはコリンのようになりがちだけれども、懸命にビリーのように生きるべきだといっているわけですが。

2007年1月15日

ラッキーナンバー7

 ルーシー・リューって苦手だったんです。
 あの顔つきの女性は日本人にもけっこういます。わたしのまわりにもいました。これまで3人ほど出会っています。……苦手でした。もはやあのタイプの女性を見かけるだけで「逃げて〜逃げて〜(志村〜うしろ〜)」身体の奥底からサイレンが鳴り響くようになりました。
 でも、この映画にでてくるルーシー・リューを見て、印象が変わりました。好奇心の塊で、ユーモアにあふれ、セクシーで、背がちっちゃくって、ああ、とってもかわいらしいんです。

 「ラッキーナンバー7」は、ふしぎな情景から始まります。まだひと気がほとんどない夜が明けたばかりの早朝のエアポート。青年がひとりベンチに腰かけて時間待ちをしていると横にいつの間にか車いすの男がいて、謎めくことをいいます。そして、ある家族の悲劇のエピソードを語りはじめます。それは、競馬のいかさまにまつわる破滅のストーリー。これから、その復讐の物語がはじまるのだな、とわかるのですが、このあと場面ががらっとかわり、べつの青年が人まちがいされてギャングの手下につれていかれるエピソードへとつながっていきます。
 むう、状況がわからない……。しかし、だんだんとパズルのピースがひとつずつ明らかになっていきます。
 映画の途中のあるところで、ぴしっとピースがかみ合って全体像がみえてしまうので、宣伝通りに「驚きのラスト」「予測不可能な結末」「大どんでん返し」とはいかなくなりますが、この映画はでも、"謎"が途中で読まれてしまっても大丈夫なように作られているのだと思います。謎がわかるそのあたりから、またちょっと不思議なシーンが挿入されて、もうひとつ隠されたストーリーが仕込まれていくからです。読まれることを前提にしてなければこの構成にはならないでしょう。
 ミステリーは謎が明らかになってから、もうひとつの勝負があるのだと私は思います。

 ルーシー・リューは、復讐者の内面を表現することになる重要な役柄を演じています。彼女とどう接しているかで、復讐者のその非情さと温かさを知ることができます。とてもいい役です。明るく楽しげな振る舞いにほんとうに救いを感じます。彼女が真実のラッキーナンバー7なんでしょうね。

2007年1月 4日

犬神家の一族

 きのう、「犬神家の一族」を観ました。

 かつて映画化された横溝正史原作の推理小説をそのときと同じ市川崑監督がふたたび映画化した作品です。

 横溝正史の熱心なファンである弟がすでにこの映画を観ていたので感想を聞いてみると、前の作品の方がよかったとのことでした。作りは前作とほぼ同じ、キャスティングが豪華にしたためにそのひとりひとりにある程度のスポットをあてなければいけないために散漫になっているというのが第一で、石坂浩二が年をとりすぎていて原作の年齢と違いすぎるというファンならではの意見もありました。

 自分も小中学生のころに横溝正史の主だった長篇は読んでいました。前の「犬神家」の映画もテレビで何度も観ているはずなのですが、すっかり内容を憶えていません。幸か不幸か(不幸は自分の頭の馬鹿さ加減ですが)、余計な比較なしに映画を観ることができました。

 物語の時代設定は、戦後まもなくです。登場人物の一人、白いマスクをかぶった青年は戦争で顔に傷を負っています。犬神家は大東亜・太平洋戦争以前の日清戦争、日露戦争のころから戦争のたびに財をなしていった製薬会社の一族です。会社の創始者であり一族の長である犬神佐兵衛が死に、その家督、財産をねらって殺人事件が起こります。私立探偵の金田一耕助は、事件以前になにかが起こりそうだと察知した若い弁護士に呼ばれましたが、事件を未然に防ぐことはかなわず、すぐ目の前で進行していく連続殺人に翻弄されながらも、解決へと努力していきます。……たぶん努力しています。事件の読み手、解説者のようにも見えますが、努力してるんです。

 さてこの映画、問題があるとすれば、大事なところで演技者が大袈裟になってしまうところでしょう。これが舞台であれば大袈裟な芝居も盛りあげに一役買うところなんですが、ここでは観ていてちょっと引いてしまい、しらけた気分がただよってしまいます。急にそこだけが舞台になって空気が変わってしまうのは、もしかしたらミステリーのしかけなのでしょうか?(それは深読みすぎか)。

 キャスティングはまず悪くないと思います。深田恭子が役柄にすごくはまっていました。どうせだから、人物が多いことだし、上映時間を長くしても個々をもっとフォローしていってもよかったような気がしましたが、現状135分だから、やっぱり無理なんでしょうね。おしいところです。