タグ「創作」 の検索結果(1/1)

2010年2月17日

宮城谷昌光 『三国志』 第1巻

三国志〈第1巻〉 (文春文庫) (文庫) 著者の宮城谷昌光は、師匠の立原正秋に「必然性のない漢字を使ってはならない」といわれたそうです。ただ使いたいからというだけでむずかしい漢字の言葉を書いていたりしたのでしょうか。著者の略歴をみると、英文科卒で、作家としては恋愛小説から始め、歴史に興味が移り、歴史小説を書くようになったということなので、著者がその言葉を言われた時期に、中国の古い書物にどれだけ接していたかわからないのですが、中国の言葉が漢字だけでできていることをかんがえると無駄に漢字を使うということは、極端な話、無駄な文章を書いているのに等しい。その言葉が好きで敬意を表しているのなら、してはいけないことの第一となるのは必然でしょう。
 中国の古典を学んでいるものでなくとも、漢字が多くなる文章を書くきっかけはあるもので、よく男子は中島敦にあこがれて古いスタイルの文章を書いたりします *1 。『山月記』が国語の教科書にのっているので、そこから単行本を読みふけるようになり、文章をまねるというのが、文学少年の鉄板のパターンです。そうでなければ福田恆存でしょうか。「現代かなづかい」を批判し「歴史的仮名遣」がどれだけ優れているかを説いた人物です。こちらは多分にマニアックに本を読んでいった男子のパターン。評論とか理屈が好きな男子ですね。
 そんなことがきっかけで、古いスタイルの文章を書くと、その評判はたいがいにおいて「難しい漢字を使っている」となります。「かっこいい」でもなく「漢字の使い方がうまい」「漢字がわかっている」でもなく「難しい」。
 どういうことかというと、つまるところ読まれていないんです、全然。表面でひっかかってしまって、まったく中に踏み込まれていない。そんなさんざんな目に遭って(いることには当時は気がつかず)古い文章というマイブームは終わるわけです。
 こんないわゆる中二病みたいな古い文章ブームは現代っ子だけにあるわけではなくて、江戸時代にもあったようです。古典文学の現代語訳をしている歌人の須永朝彦さんは『江戸の伝奇小説3 飛騨匠物語・絵本玉藻譚』の巻末で『飛騨匠物語』と作者・石川雅望(いしかわまさもち)についての解説として以下のように書いています。

ただ原文は、他の読本の作『近江県物語』『天羽衣』共々雅文というか擬古文なので、あまり読み易いものではない。国学を修めると擬古文の物語を書いてみたくなるものなのか、本居宣長の『手枕』、建部綾足の『西山物語』、村田春海の『つくし船(竺志船物語)』、四方歌垣の『月宵雛物語』など、この手のものは幾つも想起されるものの、どれも上々の作とは申し難い。本作の文体も、聊か徹底に欠けるところが目につき、作者の蘊蓄の傾け方、即ち隅田川についての講釈を挿入した箇所など、その手際は京伝・馬琴のそれに及ばない。

 文章のスタイルが中途半端につくられていると、読んでいったときに文章に段差ができて、もともと読みにくいものがさらに読みにくくなってしまうのは確かなようです。古い言葉を現代の感覚でこねまわして見ただけでは、みっともないものができてしまうだけで、古い言葉をつかってはいるけれど、それはじつはもっとも新しい言葉なのだ、これは最新の文章の創出なのだ、という心構えが現実には必要なのでしょう。

 さて、宮城谷昌光さんの『三国志』の文章は、というと、難しい漢字の単語がありはするものの、さくさくと読んでいけます。まず、ふりがながふってあるというのと、字面で意味がとりやすいことが読みやすさの第一で、それから、文章の運びが読みやすさを生んでいます。
 たとえば、「凋弊」という言葉がでてきます。これがいきなりでてきたら、読めないし、意味をとることも困難です。これに「ちょうへい」というふりがながふってあっても事態はほとんど変わりないでしょう。『三国志』の中では「前漢のはじめに匈奴の猛威にさらされてみるかげもないほど凋弊した」となっています。「猛威にさらされて」と「みるかげもないほど」が「凋弊」にかかっているので、その言葉を知らなくても、なんとなく意味がわかるようなつくりになっているというわけです。ただし、難しい言葉をわかりやすくするためにそうしているんではなくて、もともとそういう文章なんですね。言葉がたがいに意味をじゃましあわない。相互にうまく関係し合っている。音楽的な意味で調和がとれています。
 そのほかの特徴としては、この『三国志』は俯瞰で描かれてします。筆者は、登場人物にならずに、登場人物を観察する立場ですべてを書いていきます。
 これは一般的には「説明」といわれる文章です。小説家志望のひとたちのあいだでは説明の文章はダメといわれます。つまらないから。でも、おもしろいんですよね、この小説は。
 ようは、説明の文章も、おもしろく書けば、ぜんぜんだいじょうぶなわけです。たいていの場合、説明は、たんたんと一本調子で書かれているんでおもしろくないんですよね。ほかのところだと、緩急をつけたり、オチをつけてみたり、言葉遊びをしたり、リズムをつけたり、自然にいろいろと工夫を凝らしているのに、説明というところだけはなんにもしないんですから、おもしろいはずがありません。
 
 と文章のことばかり書いてしまいました。内容については次巻のところで書いていきたいと思います。

"三国志〈第1巻〉"
宮城谷昌光
文春文庫
630円
Amazonアソシエイト

2008年4月20日

読ませる技術

Amazon.co.jp: 読ませる技術 (ちくま文庫): 山口 文憲: 本
 序盤は、書くことについての姿勢、考え方について書かれています。
 この部分は、なんか漠然としていて、正直、おもしろくありません。
 けれどその後から、具体的な、実用性の高いテクニックが紹介され、ぐんとおもしろみが増してきます。

 たとえば、ひとつひとつの文のつながりを確認するのに"けれども""またなどといった"接続詞をいれてみるといった方法(ただし"しかし"は使わない)。さらにはそこから、文がちゃんとつながっていれば接続詞はどんどん省けてしまう。文章のテンポアップにつながるといったお話。さらに応用して文と文とのつながりにあえて隙間をつくってジャンプさせるというテクニックにまでつながります。

 ところで、まえから思っていたんですが、教本・ハウツー本って、初心者か玄人(くろうと)さんか、両端のひとにしか役立たない気がします。
 ある程度かじったひとは、たいがい、ぜんぶもう知ってることだとバカにしてまともに読みやしないし、うだうだテキストにむかってる暇があったら、実際にやったほうがなんぼか得るものが大きいってものです。
 玄人さんにとってのこういうテキストは自分の中の整理に役立ちます。これまでやってきた中でつかみ取ったノウハウ、感じきたこと、そういうものの蓄積がきれいに整理されて、心機一転、さらなる精進につながるんですね。

 というものの、ふだん自分は、こういう本は、技術書としてでなく、エッセイとして読んでいます。ずっと打ち込んできたことについて書いた作品です。おもしろくなきゃ、ウソってもんでしょう。作家の実力をはかるのに最適なのではないかと思うんです。

"読ませる技術  書きたいことを書く前に"
山口文憲
ちくま文庫
600円
Amazonアソシエイト
オンライン書店ビーケーワン