全体の流れ
今回の話はちょっと長いので、前後編に分けます。
この記事は「美大に入学してから休学するにいたるまで」の話。
休学したのは3年次なので、「入学~3年まで」のことを順を追って話を進めていきたいと思います。
ではまず、各年次に自分がどんなことをしてたのかなど全体の流れをまとめてみます。
1年
スーパーのレジバイトをしながら、大学で出る課題をもくもくとこなしていました。
自主制作としてちょびちょび絵を描いたりしていたものの、FPSゲームOverwatchに熱中してたということもあり、取り立てて何かしていたわけではありません。
2年
親元を離れたくなるお年頃です。
成績優秀で特待生になって、学費を浮かせば一人暮らしができるんじゃないかと画策し、一人暮らしのために授業をしっかり受けていました。
絵系の授業を選択したので、やりたいことができて楽しかったです。
またこの年に授業で初めてWEBデザインに触れました。
自主制作もぼちぼち。
あとコールセンターのバイトもしました。
この2年次は大学生活の中でいちばん良い感じだった年だと思います。
3年のはじめ
なんと思惑通り特待生になることができ、念願の一人暮らしもスタート。
今年も特待生を目指しながら、いろいろ挑戦するぞ~!、と意気込んだものの…。
この辺が今回の話の核心になります。
〜この記事で詳しく取り上げるのはここまで〜
3年休学(8~12月)
休学が決定します。
それに伴い一人暮らしを終了し実家へ。
そして今度は”退学”の許可をもらうため、この期間に何か成し遂げようと尽力します。
退学後(1月~)
なんとか退学を完了。
気持ち的にはスッキリしていたので、ここからはりきって自主制作にいそしみます。
クラウドソーシングで絵の仕事をちょびちょびもらったり、このブログを開設したりします。
そして4月にまた親元を離れます。
執筆現在(1月)
退学して1年。
ブログを運営しながら漫画家アシスタントの仕事をしています。
ゲームなどを作りたいので構想を練るなどし、日々は楽しいです。
今回の記事で触れる部分をざっと図にまとめるとこんな感じ。
では、まずは入学前の話。
入学前
美大に進学した理由から。
幼い頃から絵を描くのが好きでした。
「なにかを表現するのが楽しい」というよりかは、「上手く描けて楽しいな」という気持ち。
とは言っても、まれに描くくらい。
ハマってるゲームなどを差し置いて、優先的に絵を描くようなことはありませんでした。
中学~高校は模写が中心で、ワンピとかモンハンを模写して楽しんでいました。
こんなの。
結局、「普通の会社に入るよりは、絵というか、クリエイティブな仕事ができたらいいな」みたいなそんな気持ちで美大への進学を決めた気がします。
当然退学のつもりなんか一切なく、漠然と、いつかきたる”就活”に恐怖を抱いていた覚えもあります。
そして受験ですが、実技試験なしで、センター試験の英語と数学だけで受けました。
正直、合格ラインがすごく低く、どう考えても受かる!と思ったので、他の大学はひとつも受けませんでした。
(一応、受験料を払ってくれる親のために…というつもりだったんですが、親はめちゃくちゃ不安がってました。)
1年
そして大学の1年次ですね。
- スーパーのレジバイト
- 大学の課題
- かすかに自主制作
こんな感じのことをやりました。
いっこずつ見ていきます!
スーパーのレジバイト
最寄り駅から1駅離れたところにある普通のスーパーなんですが、高2からずっとやってました。
高3の受験期、「受験なのでしばらく入れません」と店長に伝え、大学入学後、働こうともう一度顔を出したんですが、なんか辞めた扱いになってしまっており、契約書的なやつも改めて書いたし、パートのおばちゃんたちにも「なんで居るの?!」みたいな反応をされた思い出があります。
そのバイト先で知り合った友達にも、久々に遊んだとき「まだあそこでバイトしてんの?!w」と驚愕されました。
自分でもやけに長く居るなあと思ったんですが、別に辞める理由もなかったので進学後もしばらく続けていました。
大学の課題
「美大って実際どんなことをやってるの?」と思う人もいるかもしれませんが、多分おおむねイメージ通りのことをやってました。
最初は色の勉強から。
アクリル絵具で色相環を描くところから始まり、デッサンやスケッチ、自画像なんかを描きました。
その大学は1年次に手広なことができるので、ちょっとした映像を作ったり、粘土をこねたりもしました。
授業の面白さは正直ピンキリで、「こりゃ楽しい!」ってやつもあれば、「これ意味あんのか…?」と疑問を持ってしまうような授業もありました。
かすかに自主制作
この時はアルバイトと課題とOverwatchに手一杯で、それらしい活動はほとんどしていませんでした。
たまにスケッチ程度の絵を描いたりしたくらいですね。
ほんとにちょろっと…というレベルです。
2年
2年次です。
やったことはこんな感じ。
- コールセンターのバイト
- 大学の課題(特待生になるためがんばる)
- 自主制作
コールセンターのバイト
長い間お世話になったスーパーをやめ、より時給のいいバイトに挑戦しました。
この時は自覚してなかったんですが、自分は「HSP(めっちゃ敏感な人)」という気質のようで、人の感情とかにかなり敏感なタイプです。
今考えるとコールセンターのバイトなんて、かなり不適正だったと思います。
電話ごしのお客との会話はまだいいのですが、なんか周りの人がすごくピリピリしており、それが辛くて3~4か月であえなく引退してしまいました。
大学の課題(特待生になるためがんばる)
特待生になるには、いろいろ受講するすべての授業において成績評価を高めなくてはいけません。
授業を選択する時点で「なんとなく大変そうな授業」は避け、「良い評価を取りやすそうな授業」を吟味しました。
もちろん興味のある授業、という前提はあります。
授業の欠席は成績にひびくのでほぼ出席。
たまに友達とサボったりしましたが、その辺の回数はしれっと管理してました。
あとここで初めてWEBデザインに触れました。
コーディングとか楽しかったので、WEB系の方向を目指すのもいいなと思いました。
自主制作
2年のときはどうやら結構はりきっていたみたいで、自主制作もぼちぼち、1年の頃よりはやっていました。
ここからは課題でやったやつです。
3年
そして3年次です。やったことはこんな感じ。
- 大学の課題(ちょっぴり)
- もんもんと思考
- 自主制作
- 1件アルバイトに応募(落)
流れとしてはこうです。
もんもんと考える
休学
これから「そのとき感じていたこと」「考えていたこと」をまとめていくのですが、その考えとか感情の出現した時系列は曖昧です。
感情なんかは時間をかけてじわじわ湧き出る場合もあるし、休み出した日とどっちが先か、とかはあんまり正確に覚えていません。
もんもんと考え込んでたのは突然学校を休んだあとのことだったと思うので、先に休み始めたときのことを書きたいと思います。
まず、なんと計画通りに特待生になることができました!
成績5位までは特待生で、順位に応じて学費が安くなるのですが、なんと1位で全額免除。
そして計画通り、浮いたお金での一人暮らしを提案。
実際両親は大賛成というわけではなかったものの、許可をもらうことができました。
学費に充てる予定だった奨学金を一人暮らしに充てた感じです。
春休みの間にさくさく準備を進め、ちょうど3年次の開始と同時に念願の一人暮らしスタート。
流れ的にはすごく順調でした。
が、しかし…。
5月のある日、突然学校に行きたくなくなって、急に欠席をし始めます。
それまでは変わらず授業を受けていて、前日も課題を進めてたのですが…
本当に突然、「あ、なんかめんどくさいな…」と、張り詰めていた糸が切れた感じです。
そこから「なんでこんなしんどくなってるんだ?なにが原因?」と、考え込みはじめます。
まず、3年になって、2年のときと”同じく”課題をこなしていくんですが…「あまりに”同じく”じゃないか?」と思いました。
1年では、いろんなジャンルの課題をこなす。初めてのことが多数。
2年では「やっぱり絵がいいな」と思い、絵系の授業を選択しより深い絵の課題をこなす。初めてのことが多数。
しかし3年で、また同じような絵の課題。もう飽きた!という感じです。
「よっしゃ次は3年だ!」と意気込んだのに反して、2年のときと代わり映えのない課題に冷めてしまいました。
そんで、「大学の授業もう意味ないのかもな」、と考えたりしました。
もちろん似たような課題だとしても、考えながら制作していけばスキルアップはできます。
先生の意見を聞けるというのも大きいし、大学という場である程度の強制力を効かせて取り組むことができるのもメリットです。
でもそれは、自分には必要ないと思い至りました。
一人でもスキルアップはできるし、絵以外にもやりたいこと、特にこの時はWEB系をもっと勉強してみたかったからというのもあります。
この年も特待生を狙うつもりで自分で自分にプレッシャーをかけていましたが、このまま、意味を感じないまま、ただただ学費を浮かすために努力して意味あるのか?という葛藤です。
そうして悩んでいるもんもんとした気持ちに、「アパートの騒音問題」が拍車をかけます。
1年間がんばって、ようやく手にしたワンルームの部屋ですが、自分ひとり、のびのびできる空間ではありませんでした。
悲しいことに、床が薄くて、下の階の音が筒抜けだったのです。
通話の声がボソボソ聞こえ、足音がドスドスひびく。
自分の足音も伝わるから、カーペットの上を忍び足。
先に書いた通り、自分はHSP(めっちゃ敏感な人)なので、そういうことが人一倍気になります。
本当にだるかったです。家では心と体を休めたいのに、それができませんでした。
四六時中ずーっとうるさいわけではなかったんですが、床を見て常に下の階のことを意識してしまうから、とにかく気が休まらない状況でした。
そしてさらにもうひとつ。
大学のこととか騒音とか、いろいろしんどいことはあったけど、いちばんきつかったやつ。
不眠です。
夜、めちゃくちゃ眠いのに、スムーズに眠ることができませんでした。
ベッドに入って眠るまでの数時間かかることがよくあり、それが本当につらかったです。
眠れないとき、「いっそのこと起きてしまってなんかする」っていうやり方があると思うのですが、目が覚めてるというわけではなく、普通に眠いしボーッとしてるし、それはできませんでした。
寝る前に画面の光を見ないとか、日中しっかり体力を使うとか、思いつく限り試したんだけど改善はせず…。
今現在、このときのような不眠の症状は治っていますが、治ってからもしばらくベッドに入るのがちょっと怖かったです。
それくらいのしんどさを味わっていました。
そんな感じで、
- 特待生に向けてのプレッシャー
- 意味を感じない大学の授業
- 騒音
- 不眠
これらをもって、晴れてうつ気味に。
診断を受けたわけではないし、なんにも動けないほどの症状ではなかったから”気味”としています。
実は、希死念慮(死にたいと思う気持ち)をすごく感じていました。
高いところに行って飛べるかどうか本気で考えたり、いちばん苦痛なく死ぬ方法を真剣に模索したりしました。
帰ってこなくてもいいやと思いながら深夜2時半くらいにアパートを飛び出して、2時間全力でチャリをこいで海に行ったりもしました。
でも不思議と、そういうことで頭がまるまる染まっていたわけではなくて、絵を描いたりはしていました。
その証拠に家出の日、謎のLINEスタンプを公開していたりします。
この話を書くにあたって当時の写真フォルダとかを見返していたのですが、その「家出の写真の日付」と、「LINEスタンプの告知ツイートの日付」が同じでびっくりしました。
当時はうつ気味でずっと落ち込んでたイメージだったから、「家出しながらLINEスタンプ公開してるやん!!思ったより気落ちしてないやん!!」と、過去の自分にツッコみました。
あと、WEB系のベンチャー企業のアルバイトにも応募してました。
面接を受けて、かなり好印象で、面接していただいた二人のうち一人の方には、「多分この席を使ってもらうことになるよ!」と案内されたりもしたんですが、もう一人の方には「片道1時間ってのがなぁ~、嫌になっちゃうと思うんだよね」と、通勤時間がマイナスな雰囲気。
それだけが理由かは分かりませんが、あえなく見送り…。
めっちゃ歓迎ムードで「受かったやろこれ!」と思い込んでただけに、悔しかった記憶があります。
そんなこんなで、さっき書いた通りこれらの順序は曖昧なんですが、大学に行くのが極度に嫌になり、5月の後半からしばらく休んでいました。
そして色々考え続けたのですが、まあ、死ぬくらいならまず学校をやめてしまえばいいかと思って、親に「学校辞めたいです」と、こんな文面を送った。
ああだこうだ理由を述べていますが、今思い返すと「心身の不調、特にメンタル面の不調により極度に大学が嫌になり、適当に通い続けるという選択ができなかった」というのが実際のところだと思います。
別に大学のレベルが低かろうが意味を感じなかろうが、卒業のために適当に通えばそれでいいはずなのですが、なぜかそれがめちゃくちゃ嫌だったのです。
そんなやり取りを親や先生とすることになります。
父からは「大学に意味を感じてないのは、学び方が受け身すぎるからでは?」「4大卒の資格は重要。中退なんか社会では役に立たない」、
母からは「特待生のプレッシャーは感じなくていいから、もう少しダラダラしながら適当にこなしていきなさいよ」、
先生からは「他にやりたいことがあるなら、大学に通いながらやってみれば?卒業はしないと」と言われました。
うーん、それがしんどいだよなぁと、当時の自分は思いました。
それで「気落ちしていること」「なんかもう生きたくないと思ってること」も追加で伝えました。
でも、要するに「とりあえず大学は通い続けようね」ということを言われます。
こちらのメンタルの下がり具合が伝わりきっていなかったのが大きかったのだと思います。
自分も、自分がしんどくなってることは理解していたものの、それが、ちゃんとした対処が必要なレベルのものだと分かってなかったから、”メンタルやばいアピールをもっとする“という選択は思い浮かびませんでした。
当時は「なんでだ!とりあえず学校休ませてくれ…」と憤りを感じて最悪の気分になっていました。
けど、たしかにあの文面で来られても反対してしまうのは仕方がないと思います。
仮に今自分が誰かに同じように相談されたとしても、その人の心身が健康なのだとしたら、とりあえずは大学に通い続けることを勧めると思います。
ちなみに心身ともに健康な今の自分ならと考えると、大学に意味を感じてなくても、とりあえず適当にこなしながら自主制作に力を注ぐことはできそうだと思います。相当だるいにはだるいですが…。
やっぱり当時は、メンタル不調が大学嫌悪を促進させていた、ということになりそうです。
と、今でこそ分析できていますが、当時はただただすこぶる大学に行きたくない気持ちでいっぱいだったのみで、むしろ「行きたくないのに行かなきゃいけない、からしんどくなってる」みたいな感じと思っていました。
整理して考えると「めっちゃ行きたくない→うつ気味」ではなく、「うつ気味→めっちゃ行きたくない」だった、という感じです。
でも、大学に意味を感じなくなったこと自体は、メンタルのせいではありません。
メンタルの低下でその思いがすこし過剰になった節はあるものの、そもそも、そう考えたキッカケは「大学なしで、自分でやっていける自信」が根底にあったからです。
絵もWEBデザインも、注力すれば稼げるレベルに到達できる自信がありました。
WEBのスキルなんか当時はたかが知れていましたが、会社に入ってからでも独学でも、どんどん学んでいけるだろうな、という感覚はありました。
絵の方はめちゃくちゃ自信があったというわけではないのですが、なんとか武器にはなるだろうと思っていました。
「どの道を選んでも、なんとかうまくやっていけるだろう」という自信です。
うつ気味に後押しされて休学・退学した形にはなっていますが、心身ともに健康だったとしても、休学くらいならしてた可能性はけっこうありそうです。
そのくらい「自分でやってやるぜ」という気持ちが強かった感じですね。
そして休学
結局、親と話して、なんとか休学の許可をもらうことができました。
親も自分も、メンタルの低下に関してはちゃんと認識しないままでしたが…。
休学は3年次、後期の半年。
その間いろいろ活動して、休学の期間が終わる頃に復学か退学か休学延長かを決める、という形になりました。
そして騒音アパートも入居3か月で解約。
状況が状況なので、あの物件は最悪な印象…とまでは行かないけど、自分にとって古傷みたいになっています。
たまーに近くを通ると ( ._. ) ってなる。
おわりに
というところで、今回はここまでです。
次回、後編では「休学後にやったこと」「退学してから現在までのうごき」らへんを書こうと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました!