はじめに
※今回はタメ口中心で書いてみました!
まずタイトルに使った「成績1位」というワードについて先に説明させてください。
「成績1位?スゴ!」と思うかもしれないけど、実際はその25%くらいのすごさ。
自分が通っていた大学は名のある大学ではないし(決して五美大などではない)、授業のレベルも学生の意欲も、ハイレベルとは言い難い。
もちろんそんな環境でもやる人はやる。すごい人はいるし、実際目を見張るような結果を出している人も少なくない。
でも、成績1位を狙おうとするとき、競争相手はだいぶ少ない。
だから思ったよりはすごくない、ということ先にお伝えしておきます。
※なんか冷静に謙虚な感じ出してるけど、1位の通達が来た時は「すdfhんvsっhgs!!?!??!???おれすご?!?!?!!!!!?」と歓喜した。
全体の流れ
今回の話はちょっと長いので、前後編に分ける。
この記事は「美大に入学してから休学するにいたるまで」の話。
休学したのは3年次なので、「入学~3年まで」のことを順を追って話を進めていく。
次の記事では「休学~退学~現在」のこと。
ではまず、各年次に自分がどんなことをしてたのかなど全体の流れをサクッとまとめる。
そのあとそれぞれ詳しく書いていく感じで。
1年
スーパーのレジバイトをしながら、大学で出る課題をもくもくとこなしていた。
自主制作としてちょびちょび絵を描いたりしていたものの、大人気FPSゲームOverwatchから逃げぬよう忙しかったので、取り立てて何かしていたわけではない。
2年
親元を離れたくなるお年頃。
成績優秀で特待生になって、学費を浮かせば一人暮らしができるんじゃないかと画策。
一人暮らしのために授業をしっかり受けていた。
絵系の授業を選択したので、やりたいことができて楽しかった。
またこの年に授業で初めてWEBデザインに触れた。
自主制作もぼちぼち。
あとコールセンターのバイトもした。
大学生活の中でいちばん良い感じだった年。
3年のはじめ
なんと思惑通り特待生になることができ、念願の一人暮らしもスタート。
今年も特待生を目指しながら、いろいろ挑戦するぞ~!、と意気込んだものの…。
この辺が今回の話の核心になる。
※この記事で詳しく取り上げるのはここまで。
3年休学(8~12月)
休学決定。
それに伴い一人暮らしを終了し実家へ。
親から退学の許可をもらうため、この期間に何か成し遂げようと尽力。
退学後(1月~)
なんとか退学完了。
気持ち的にはスッキリしていたので、ここからはりきって自主制作にいそしむ。
クラウドソーシングで絵の仕事をちょびちょびもらう。
あとこのブログを開設。
そして4月にまた親元を離れる。
今(1月)
退学して1年。
ブログを運営しながら漫画家アシスタントの仕事をしている。
ゲームなどを作りたいので構想を練っている。
日々は楽しい。
今回の記事で触れる部分をざっと図にまとめるとこんな感じ。

もし興味を持っていただけたら、最後まで読んでくれると嬉しいです。
では早速ひとつずつ詳しく。
まずは入学前の話から。
入学前
美大に進学した理由から。
幼い頃から絵を描くのが好きだった。
「なにかを表現するのが楽しい」というよりかは、「上手く描けて楽しいな」という気持ち。
まあ、とは言っても、まれに描くくらい。
その時々にハマってるゲームを差し置いて絵を描くようなことはなかった。
中学~高校は模写が中心で、ワンピとかモンハンを模写っていた。
こんな感じ。



その時の自分の画力は「全体的な平均よりは上手くかけるけど、絵を描く人の中では全然まだまだな方」という感じ。
結局、「普通の会社に入るよりは、絵というか、クリエイティブな仕事ができたらいいな」みたいなそんな気持ちで美大への進学を決めた。たしか。
当然退学のつもりなんか一切なし。
漠然と、いつかきたる就活に恐怖を抱いていた気もする。
で、美大なんだけど、実技試験なしで、センター試験の英語と数学だけで受験した。
難なく入学。
合格ラインがすごく低いんですわな。
どう考えても受かると思ったので、他の大学はひとつも受けなかった。単願。
受験料を払ってくれる親のためにというつもりだったんだけど、親はめちゃくちゃ不安がってた。
1年
やったこと
- スーパーのレジバイト
- 大学の課題
- かすかに自主制作
これもひとつずつ見ていく。
スーパーのレジバイト
最寄り駅から1駅離れたところにある普通のスーパーなんだけど、高2からずっとやってた。
高3の受験期、「受験なのでしばらく入れません」と店長に伝え、大学入学後、働こうともう一度顔を出したんだけど、
パートのおばちゃん達は僕がとっくに辞めたものと思っていたらしく、「なんで居るの?!」みたいな反応をされた思い出がある。
そのバイト先で知り合った友達にも、久々に遊んだとき「まだあそこでバイトしてんの?!?!w」と驚愕された。
自分でもやけに長く居るなあと思ったけど、別に辞める理由もなかったので進学後もしばらく続けてた。
大学の課題
「美大って実際どんなことをやってるの?」と気になる人もいるかもしれないけど、多分おおむねイメージ通り。
最初は色の勉強から。
アクリル絵具で色相環を描くところから始まり、デッサンやスケッチ、自画像なんかを描いた。
うちの大学は1年次に手広なことができるので、ちょっとした映像を作ったり、粘土をこねたりもした。
探したら写真あった。



授業の面白さはピンキリ。
「こりゃ楽しいぜ」ってやつもあれば、「これ意味あんのか…?」と疑問を持ってしまうような授業もあった。
かすかに自主制作
この時はアルバイトと課題とOverwatchに手一杯で、それらしい活動はほとんどしていなかった。
たまにスケッチ程度の絵を描いたりしたくらい。
これも探したらあった。ほんとにちょろっとレベル。



2年
やったこと
- コールセンターのバイト
- 大学の課題(特待生になるためがんばる)
- 自主制作
コールセンターのバイト
長い間お世話になったスーパーを退き、より時給のいいバイトに挑戦した。
この時は自覚してなかったんだけど、自分は「HSP(めっちゃ敏感な人)」という気質のようで、人の感情とかにかなり敏感。
コールセンターのバイトなんぞ、最高に不適正。
電話ごしのお客との会話はまだいいんだけど、周りの人のピリピリ感に耐えられず、3~4か月であえなく引退。
大学の課題(特待生になるためがんばる)
特待生になるには、いろいろ受講するすべての授業において成績評価を高めなきゃいけない。
授業を選択する時点で「なんとなく大変そうな授業」は避け、「良い評価を取りやすそうな授業」を吟味した。
もちろん興味のある授業っていう前提で。
授業の欠席は成績にひびくのでほとんど出席。
たまに友達とサボったりしたけど、ちゃんと管理してた。
あとここで初めてWEBデザインに触れた。
タイピングの速さに驚かれたり、飲み込みが早く一人だけ別扱いみたいになったりして嬉しかった。(自慢顔)
WEB系に進むのもいいなと思った。
自主制作
2年のときはどうやら結構はりきっていたみたいで、自主制作もぼちぼちやっていた。




課題で作ったやつも載せておく。



3年
やったこと
- 大学の課題(ちょっぴり)
- もんもんと思考
- 自主制作
- 1件アルバイトに応募(落)
ここはちょっと複雑なので、全体をまとめて書く。
流れとしてはこんな感じ。
もんもんと考える
休学
この流れの中で「そのとき感じていたこと」「考えていたこと」をまとめていくんだけど、その考えとか感情の出現した時系列は曖昧。
感情なんかは特にグラデーションでじわじわ湧き出る場合もあるし、休み出した日とどっちが先か、とかは微妙なところがある。
もんもんと考え込んでたのは突然学校を休んだあとのことだったと思うので、先に休み始めたときのことを書く。
まず、なんと計画通り特待生になった。
成績5位までは特待生で、順位に応じて学費が安くなるんだけど、なんとなんとの1位で全額免除。
これには親族一同もニッコリ。
そして計画通り、浮いたお金での一人暮らしを提案。
まあ大賛成ではなかったものの、許可をもらうことができた。
学費に充てる予定だった奨学金を一人暮らしに充てた感じ。だから自費。
春休みの間にさくさく準備を進め、ちょうど3年次の開始と同時に念願の一人暮らしスタート。
めっちゃ順調だった。

が、しかし…。
5月のある日、突然学校に行きたくなくなって、急に休んだ。
それまでは変わらず授業を受けていて、前日も課題を進めてた。
でもほんとに突然、「あ、クソめんどくさいな…」って、張り詰めていた糸が切れた感じ。
そこから「え、なんでこんなしんどくなってるんだ?なにが原因??」と、考え込みはじめる。
まず、3年になって、2年のときと同じく課題をこなしていくんだけど…「”同じく”すぎね?」と思ってた。
1年 → いろんなジャンルの課題をこなす。初めてのこと多数。
2年 → 「やっぱり絵がいいな」と思い、絵系の授業を選択しより深い絵の課題をこなす。初めてのこと多数。
3年 → で、また似たような絵の課題。もうおなかいっぱいだよ!
「よっしゃ次は3年だ!」と意気込んだのに反して、2年のときと代わり映えのない課題に冷めてた。
そんで、「大学の授業もう意味ないかもな」、と考えた。
もちろん似たような課題だとしても、考えながら制作していけばスキルアップはする。
先生の意見も聞けるし、ある程度の強制力を効かせて取り組むことができるのもメリット。
でもそれは、自分には必要ないなと思った。
一人でもスキルアップはできるし、絵以外にもやりたいこと、特にこの時はWEB系をもっと勉強してみたかったから。
この年も特待生を狙うつもりで自分で自分にプレッシャーをかけていたんだけど、このまま、意味を感じないまま、ただただ学費を浮かすために努力してなんになるんだ、っていう葛藤。
そうして悩んでいるもんもんとした気持ちに、「アパートの騒音問題」が拍車をかけた。
1年間がんばって、ようやく手にしたワンルームの部屋は、自分ひとりの空間じゃなかったらしい。
2階建て木造アパートの2階。
内装のきれいさで選んだ。
床が薄く、下の階の音が筒抜けだった。
通話の声がボソボソ聞こえ、足音がドスドスひびく。
自分の足音も伝わるから、カーペットの上を忍び足。(威嚇のためにわざとうるさく歩いたりもしたけどw)
先に書いた通り、自分はHSP(めっちゃ敏感な人)だから、そういうことが人一倍気になる。
まじでだるかった。家というのは心と体を休めるべきところなのに、それがつぶされてた。
まあ四六時中ずーっとうるさいわけではなかったんだけど、床を見て常に下の階のことを意識してしまうから、ほんとに気が休まらない状況だった。
そしてさらにもうひとつ。
大学のこととか騒音とか、いろいろしんどいことはあったけど、いっちばんきつかったやつ。
不眠。
夜、めちゃくちゃ眠いのに眠れなかった。
ベッドに入って眠るまでの数時間が本当につらかった。
まじでろくに眠れなかった。
眠れないとき、「いっそのこと起きてしまってなんかする」っていうやり方があるけど、眠いしボーッとしてるし、できなかった。
寝る前に画面の光を見ないとか、日中しっかり体力を使うとか、思いつく限り試したんだけど改善しなかった。
これ、書いてて思ったけど、自律神経失調症かな?
多分そうだ。
で今は不眠は治ってるけど、治ってからもしばらくベッドに入るのがちょっと怖かった。
最近ようやく安心して眠れるようになった。めでたし。
もうあんなのは勘弁。
そんな感じで、
- 特待生に向けてのプレッシャー
- 意味を感じない大学の授業
- 騒音
- 不眠
これらをもって、晴れてうつ気味に。
診断を受けたわけじゃないし、なんにも動けないほど重度ではなかったから”気味”。
さっき書いたけど多分自律神経失調症。分からんけど。
希死念慮(死にたいと思う気持ち)がすごかった。
高いところに行って飛べるかどうか考えたり、いちばん苦痛なく死ぬ方法を真剣に模索したりした。(楽に死ぬ方法、知恵袋で質問したら規約違反で消されたw)
帰ってこなくてもいいやと思いながら深夜2時半にアパートを飛び出して、2時間全力でチャリをこいで海に行ったりもした。
でも意外と、そういうことで頭がまるまる染まっていたわけではなくて、絵を描いたりはしていた。
その証拠に家出の日、謎のLINEスタンプを公開していたりする。
この話を書くにあたって当時の写真フォルダとかを見返してたんだけど、その「家出の写真の日付」と、「LINEスタンプの告知ツイートの日付」が同じでびっくりした。

見返すまで、当時はうつ気味でずっと落ち込んでたイメージだったから。
「家出しながらLINEスタンプ公開してるやん!!思ったより気落ちしてないやん!!」ってツッコんだ。
あと、WEB系のベンチャー企業のアルバイトにも応募してた。
そこの話もちょろっと。
面接も受けて、かなり好印象だったんだけど、「片道1時間ってのがなぁ~、嫌になっちゃうと思うんだよね」と、通勤時間だけマイナスだった。
それだけが理由かは分からないけど、あえなく見送り。
めっちゃ歓迎ムードで「受かったやろこれ」と思い込んでただけに、悔しかったな。今でも悔しい。もっかい応募しようかな。うそです。いやありだな。
そんなこんなで、さっき書いた通りこれらの順序は曖昧なんだけど、大学に行くのが極度に嫌になり、5月の後半からしばらく休んでた。
大学のこと以外に対する気力はある程度あったんだけどね。
でいろいろ考えてたんだけど、まあ、死ぬくらいならまず学校やめちまえばいいかと思って、親に「学校辞めたいです」と、こんな文面を送った。

あーだこーだ理由を述べてるけど、今思い返すと「心身の不調、特にメンタル面の不調により極度に大学が嫌になり、適当に通い続けるという選択ができなかった」というのが実際のところだと思う。
別に大学のレベルが低かろうが意味を感じなかろうが、卒業のために適当に通えばそれでいいじゃんか。
でも、それが最高に嫌だった。
そんなやり取りを親や先生とすることになる。
父からは「大学に意味を感じてないのは、学び方が受け身すぎるからでは?」「4大卒の資格は重要。中退なんか社会では役に立たない」、
母からは「特待生のプレッシャーは感じなくていいから、もう少しダラダラしながら適当にこなしていきなさいよ」、
先生からは「他にやりたいことがあるなら、大学に通いながらやってみれば?卒業はしないと」と言われた。
うーん、それがしんどいだよなぁと、当時の自分は思った。
それで「気落ちしていること」「なんかもう生きたくないと思ってること」も追加で伝えた。
でも、要は「とりあえず大学は通い続けようね」ということを言われた。
こちらのメンタルの具合が伝わりきらなかったんだと思う。
自分も、自分がしんどくなってることは理解していたものの、それが対処の必要なレベルのものだと分かってなかったから、”メンタルやばいアピールをもっとする“という選択は取れなかった。
当時は「なんでや…学校休ませてくれやまじで…」と憤りを感じて最悪の気分になってた。
けど、たしかにあの文面で来られても反対してしまうのは仕方がない。
仮に今自分が誰かに同じように相談されたとしても、その人の心身が健康なのだとしたら、とりあえずは大学に通い続けることを勧めると思う。
メンタルの部分がしっかり伝わった上であの対応ならひどいけど、そこが伝わってなかったので、本当に仕方ない。
「あ、だいぶ気落ちしてるのかな」って察知してくれたら大変ありがたかったけど、それは高望みだね。
ちなみに心身ともに健康な今の自分ならと考えると、大学に意味を感じてなくても、とりあえず適当にこなしながら自主制作に力を注ぐことはできそう。
相当だるいにはだるいけど。
やっぱり当時は、メンタル不調が大学嫌悪を促進させてたんだと思う。
と、今でこそこうやって分析できてるけど、当時はただただすこぶる大学に行きたくない気持ちでいっぱいだったのみ。
むしろ「行きたくないのに行かなきゃいけないからしんどくなってる」と思ってた。
ていうかこの記事を書くまでずっとそうだと思ってた。
整理して考えると「めっちゃ行きたくない→うつ気味」ではなく、「うつ気味→めっちゃ行きたくない」だったということに気づく。
でも、大学に意味を感じなくなったこと自体は、メンタルのせいじゃない。
メンタル低下で過剰になった節はあるものの、そもそもそう考えたキッカケは「自分でやっていける自信」が根底にあったから。
その話も書いておく。
絵もWEBデザインも、注力すれば稼げるレベルに到達できる自信があった。
WEBのスキルなんか当時はたかが知れてたけど、会社に入ってからでも独学でも、どんどん学んでいけるだろうなって思ってた。
絵の方はめちゃくちゃ自信があったというわけではないんだけど、まあなんとか武器にはなるだろうと思ってた。
「どの道を選んでも、なんとかうまくやっていけるだろう」という自信。もはや確信。
「お、ワイそこそこやれそうじゃん」っていう感覚をいろんな分野で感じていたから、”要領よくこなしていく力“みたいなのが備わっているんだなと思ってた。
休学前でいうとイラスト、絵画、ストーリー作り、デザイン、WEBコーディング、映像制作、3D制作など。
うつ気味に後押しされて休学・退学した形にはなってるけど、心身ともに健康だったとしても、休学くらいならしてた可能性は割りとある。
そのくらい「自分でやってやるぜ」という気持ちが強かった。
そして休学
結局、親と自分で直接話して、なんとか休学の許可をもらった。
親も自分も、メンタル低下に関して明確には認識しないままだったけど。
休学は3年後期の半年。
その間いろいろ活動して、のちに復学か退学か休学延長かを決める形になった。
騒音アパートも入居3か月で解約。
状況が状況なので、あの物件には最悪な印象…とまでは行かないけど、自分にとって古傷みたいになってる。
たまーに近くを通ると「 ._. 」ってなる。
おわりに
というところで、今回はここまで。
次回、後編では「休学後にやったこと」「退学してから現在までのうごき」らへんを書こうと思います。
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最後までお読みいただきありがとうございました。